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鷲ゼミの木



アーレンティアンへの応答

「しかしね、そもそも思考そのものが、コミュニケーションの産物なんだよ」
犀川は萌絵の言葉を無視して続ける。
「つまりは、伝達するために思考する、といっても良い。
伝達する、ゆえに我あり、ってこと。
伝達することを想定しない思考、というものは、たぶん、ありえない」
森博嗣『今はもうない』(講談社文庫)より


石井さん

お忙しい中のコメント、本当にありがとうございます。
僕の意見の的確な要約、そしてアーレントに基づいた反論で、僕の理解も深まりましたし、またブログを読んだゼミ生にも、有益なものであると思います。

返答します。

あえて図式化すると、「活動」について、僕が結果を重視し、石井さんは結果よりも過程に力点を置きました。

僕なりに石井さんの主張をまとめると、「アーレントの「活動」の思想的な背景には、全体主義がある。全体主義においては複数である人間が、単数の存在になる。本来、単数のmanではなく複数のmenである人間は、語ることによって、そのユニークさを表現できる。この語りが「活動」だ」というものです。

一方の僕は、「活動」を専門的なディスカッションかのようにとらえ、「知的水準が釣り合わないと生産的な議論が行われない」という感じで、議論の生産性、成果に力点を置きました。

そうではなく、結果がどうであれ、議論自体が起こること、自分の意見を表明すること、語ること、こういう行為こそが活動であるという指摘で、なるほどな、と思いました。
というのも、「活動」は、人間の多元性、差異性を現わすためのものであり、「自律的思考」を促すものであれば、対話の結論とは直接関係ないからです。

ただ、僕の関心は、コミュニケーションや語ること自体を拒否する人もいるんじゃないかな、という点です。
もちろん、議論の出発点が、全体主義の人間否定に対する抵抗であるため、「語らなければならないし、語ることでユニークさが表明される」という主張はわかります。
でも、「活動」に関心が持てない・持つ気がない人がいる(別に劣っていると考えるわけではないです)、そういった現実において、どのように「活動」が行われるべきか検討する必要があると感じました。
「勇気」がない人もいます。教育、あるいは「アジテーション」によって語り始める人もいるかもしれません。でも、啓蒙活動は、その相手が変わることを期待しています。
そうではなくて、「語らない人」も含めた形で、複数性をどのようにあらわにするか、これが重要なんじゃないかな、と考えています。
これはもしかしたら、「活動」とは違った仕方で、多元性を顕在化する試みかもしれません。ここまで書いてみて、これでは議論がずれてしまうな、と感じました。

僕の意見は、耳学問によるもので、堅実なテクスト読解に基づくものはない思い付きですが、石井さんとのこのやりとりにより、これが現役生の思考の一助、ちょっとした刺激になることを願ってやみません。

せっかくなので、ほこりをかぶったままの『人間の条件』を読んでみようと思います。
なお、宇波氏は『精神の生活』をお勧めしていましたよ。

とだ
# by washizeminoki | 2013-12-14 08:49 | 鷲ゼミ生の訴え

アーレンティアンからの応答

戸田氏がアーレントの活動について書いてくれたので、アーレンティアンとしては応答責任を感じ、書き込みさせていただきます。K01の石井です。
まず、戸田氏の意見を確認したいと思います。
戸田氏は、アーレントの活動(action)を、対話と言語的コミュニケーションとした上で、「強い思想」と評価しています。知的レベルが同じ人とであれば、コミュニケーションはうまくいくが、そうでなければ、知的レベルが低い人は、高い人とコミュニケーションが円滑にできない。だから、活動を広めていくためには、①強さを身につける教育と、②知的レベルが低い人に対する何らかの別の手立てが必要だ、というものでした。

 まず、僕は、アーレントの活動というものは、対話や言語的コミュニケーションと似てはいるけれども、イコールではないと思っています。この概念をおさえるためには、彼女は活動を、全体主義との対峙の中から生み出した、ということを押さえておかないといけません。全体主義はなぜ起きてしまったのか、という問い。ヒトラーは極右、スターリンはその逆で、まったく正反対の立場であるはずの政治が、同じように大量殺戮をした。これはなぜなのか、という問い。これがアーレントの根底にはありました。
 アーレントの分析によると、全体主義というテロスを前にした時、人間は十把一絡げの存在になる。パブロフの犬のように、ある刺激に対して、みんなが一様の反応をする存在になる。そういう存在は、たとえ何万人がいたとしても、単数形の存在、manになってしまう。全体主義は、このように人間を単数として扱うんだと。
でも彼女は、人間は、本来そういう存在ではないんだと抗います。みんな似ているようだけれども、差異性を持っていて、単数ではなくて複数なんだと。manではなくて、menだと。本質的に、1人1人はそれぞれユニークな存在なんだと言います。
 ただ、ユニークな存在として他人の前に現れるためには、だまっているだけでは駄目だよと。みんなが共通に関われるもの、公的なものに対して、「私にはこう見える」と表現することで初めて、その人のユニークさというものが他人に対して現れてくるのだよといいます。
 (すこし話はずれますが、アーレントがアイヒマンに対して批判を浴びせたのも、この点だと思います。つまり、唯一性を失い、上司からの命令をただひたすら遂行するという機械の歯車のような存在になっていたという点です。その結果、「凡庸」という言葉を用いたことに、「アイヒマンの犯したことの重大さを矮小化するものだ」というような批判を逆に浴びるわけですが。)

 繰り返しになりますが、僕としては、アーレントの活動は、対話や言語的コミュニケーションとは微妙に違うと思っています。対話やコミュニケーションというのは、Aさんが言ったことをBさんが理解する。発言内容の意味が分かる。そうしてBさんもまたAさんに言葉を返すと。こういう意味だと思います。そこでは、他人との意思の疎通に力点が置かれていますが、アーレントの活動は「私にはこう見える」を表現して、自分という唯一無二の存在を現象させることの方に力点が置かれています。もちろん、他人との意思疎通なしには、他人に対して現れられませんが。

 なので、知的レベルというのは、活動においては、あまり重要ではないのではないでしょうか、というのが、僕の戸田君に対するコメントです。知的レベルが低い人でも、高い人に対して現れることはできると。ただ、多少なりの勇気は必要ですね。あと、教育は大切。

 と、まあ、ここまでいろいろ述べましたけど、僕のアーレント解釈が正しいとは限りません。ゼミ生の皆さんも、時間があれば『人間の条件』『全体主義の起源』を読んでみてください。
# by washizeminoki | 2013-12-12 00:51 | 鷲ゼミ生の訴え

しかしH先生は、けしからんですよ、ほんとに

「ハグもキスもなしに行ってしまうの?」
「哲学者は思索中だと思ってさ。」
「キスがなきゃダメ。」


というやり取りが印象的な映画「ハンナ・アーレント」を観て、また大澤真幸✕宇波彰「思考する生ついての対話」講演会に参加してきたので、そのまとめと感想のメモ。

映画は、アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』の発表とその反響を描いたものだ。

アーレントは、ナチ親衛隊ユダヤ人課のトップだったアドルフ・アイヒマンの裁判を取材し、そのレポートを雑誌に連載するが、その結果、大批判にさらされる。
というのも、報告書の中で「アイヒマンはただ命令に従った小役人にすぎない」、「ユダヤ人指導者の中にもナチに協力した者がいる」と主張したからだ。
ホロコーストの中心人物を、悪魔的なものでなく、仕事に忠実な一官僚として描き、また、ユダヤ人を加害者的に表現したことは、論争ではなく、アーレントへの誹謗中傷を生んだ。

これにより大学も辞すよう勧告を受けるが、学生に向けての講演で、アーレントはこう反論する。
「ナチやアイヒマンを擁護しているわけではない。彼らは人類に対する罪を負っている(なぜならユダヤ人は人間であるからだ)。擁護ではなく、自分は悪の問題を扱っている。悪は、思考しないことから生まれる。そして、考えることこそが人間を強くする」と。

講演会では、この「思考」を中心に話が進んだ。

宇波氏は、この映画のポイントは「考える」ことであり、これがアーレントの思想の重要な点であると指摘した。
氏によれば、アーレントは「自分で考えること」を「自律的思考Selbstdenken」と呼んでいる。これはレッシング由来の言葉であり、他人や世論やイデオロギーに左右されず、自ら考えることだという(アーレントはとても頑固だったそうだ)。

大澤氏はこれを受けて、自律的思考は自分勝手に行われるものではなく、対話の中で生まれるものであると説明した。アーレントの『人間の条件』における「活動action」は、西欧で古代ギリシア時代からの伝統的なものである、政治的言語コミュニケーションであるという。「活動」は、例えば衣食住といった生活の必要を超え、政治的な場面に顕われて対話を行うことであり、そしてこの中で「自律的思考」が行われる。

(この対話や説得の話題では、大澤氏が宮台真司氏と意見が合わず、いつもやりあっているという話や、宇波氏がガダリから聞いたドゥルーズとのやりとり、またドゥルーズ=ガダリの『カフカ』の共訳が大変だったなどの体験談がありおもしろかった。)

そして、アーレントの思想に触れることで重要なのは、思想を勉強するのではなく、その「活動」、「自律的思考」を実践していくことであるとした。

さて、僕が興味深かったのは大澤氏が「いらいらする」と言っていたことだ。
大澤氏のいら立ちは、日本ではアーレント研究が流行り、また今回の映画も大評判であるにもかからず、政治的なインパクトがないことによる(ちなみに、大澤氏も宇波氏も、なぜこの映画が受けているかわからないと言っていた)。
「活動」研究が行われていても、「活動」自体は広がらない。
だからこそ、アーレントの思想の実践が強調されたわけだ。

なぜインパクトがないかということについて、僕はこれが強い思想だからだと思う。

アーレントの対話や思考を実践するには、知的にも精神的にも強さが必要だ。多くの人は、これを持ち合わせていないのではないか。これは、僕が八方美人で何事も穏便に済ませたいと考えているからかもしれないが、大澤氏も「一般的に言って、人は考えることを避けているし、他人と対面して意見を主張しあうことはあまりない」と言っていたので、僕だけの問題ではないだろう。

「活動」が対話、言語的コミュニケーションであるなら、対話の相手がまず前提とされる。その相手が自分と同じ強さを持っているならば、生産的な活動が行われるだろう。しかし、常にそのようなパートナーがいるとは限らない。

映画の中でも、例えばアーレントがドイツ語で議論を行うことで、アメリカ人が参加できなかったシーンや、またレポートにギリシア語を使っていることを編集者に指摘されても「読者も学ばないといけない」と突き放す場面があった。最後の演説にしても、出席者はニュースクールに通うエリートであり、高度に知的な学生たちだ(しかもわざわざ渦中の人物の講演を聴きに行くような)。

自らの水準が近いまたはそのレベルと目指す者であれば、コミュニケーションは円滑にいく。しかし、この条件を、絶対の前提とすることはできないのではないか。

映画でも、最後の反論を聞いた、同じユダヤ人であり同僚であり共にハイデガーの弟子であるハンス・ヨナスから「ユダヤ人の気持ちが分かっていない」と言われ、決別した(宇波氏・大澤氏によると、このシーンはおそらくフィクションとのことだが)。

このように、能力的にも心情的にも、対話が行えない者がいる。こういったことを想定する必要があるのではないか。(大澤氏によれば、日本のように対話を避ける社会があるなんて、アーレントにはそれこそ考えられないとのことであった。)

よって、「活動」の実践が広がるには、二つの方向が必要だと考える。
一つは、「活動」を促す教育だ。少なくとも、講義で「対話が大事、自分で考えて活動すべき」と解説されても何も変わらない。(ちなみにわっしーは、主張の方法である「プロパガンダ」と「アジテーション」の違いを、前者が大義名分を語るだけ、後者が実践への鼓舞になると説明していた。)
もう一つは、対話に加わらない者を前提とした理論構築を行うことだ。顕われない・顕われたくない人々が多数いる中で、強い思考ではない、何か別の思考、協同の方法を研究することが求められる。

前者は、アーレントを推し進めるもので、後者は、アーレントを超えていくものだと言ってもいいかもしれない。前者はやはり、少なくとも受け手の強いモチベーションが要求されるものであるため、後者の探求がより重要であると考える。

……と、書いてみたものの、この先の具体案は一切思いつかないので、以下僕の精神性が分かる言い訳。
僕はアーレントに関する研究どころか、そもそもアーレントを読んだことがない。色々書いたけれど、もうすでに当たり前のこと、あるいは的外れのことを言っているかもしれない。この文章は、あくまで、映画と講演会のまとめと感想のメモだ(だから怒らないでください)。結局、承認欲求(講演会の大澤氏の発言より)から、この文章を書いた。

振り返ってみると、お世話になりっぱなしのKヨミさんや、するどいAキちゃん、そして院の同級生のFジムラくんと、アーレンティアン(って呼び方があるか知らないけど)が周りにたくさんいた。「怒らないで」とは言ったものの、もし意見があればコメント下さい(だから承認欲求だという話)。

あと、盛大にネタばれしたけど、映画は本当に面白い。
アーレントと旦那のいちゃつきもあるし、笑いどころもある。学生時代のハンナちゃんはかわいいし、一方最後の反論は本当にかっこよくて、観ていて泣いちゃいました。おすすめです。
13日までは岩波ホールで、14日からはシネマカリテで上映します。ゼミ生は卒論・修論をとっとと終わらせて観るべし。

K03のTダ
# by washizeminoki | 2013-12-09 21:34 | 鷲ゼミ生のオススメ

12/5  ゼミレポート

【2013年度秋学期 第6回鷲山ゼミ】


《内容》

・『寝な構』第4回(三浦君担当)
  第4章 「四銃士」活躍す その二  バルトと「零度の記号」
・三井さんの卒論発表
 「『人間の安全保障』と日本のNGOの果たす役割」

 まず『寝な構』輪読、バルトの回についでです。
 特に議論がさかんになされたのは、記号学に関するバルトの理論およびバルトの俳句への評価についてでした。
 バルトの記号学では、「記号」(signe)・「徴候」(indice)・「象徴」(symbole)の三つの水準が設定されているとのことです。各水準間の区別について明確に理解するため議論しました。話し合いを通じて理解が深まったのは確かですが、しかし本書の記述を元にするだけでは限界があります。より掘り下げたい場合は、巻末の文献表にしたがって『テクストの快楽』『物語の構造分析』『零度のエクリチュール』『表徴の帝国』などのバルトの著作を手に取るのがよいのではないでしょうか。あるいはバルトの入門書としては、鈴村和成著『バルトーテクストの快楽 現代思想の冒険者たち』、グレアム・アレン著『ロラン・バルト シリーズ 現代思想ガイドブック』などがあるようです。蛇足ですが、バルトを離れて記号学や構造主義という枠組みに目を向けるとすれば、いずれも文庫クセジュのピエール・ギロー著『記号学ー意味作用とコミュニケイション』、ジャン・ピアジェ著『構造主義』なども最初の一冊にはよさそうです。
 そして同様にバルトの俳句への評価についても特に注目されました。ゼミ中には、バルトは俳句を過大評価しすぎではないかとの意見も出、たしかにそうかもしれないと思いました。しかしバルトが批判したかったのであろう「ヨーロッパ的解釈」のあり方に対比させてみれば、「俳句を読む」という行為への着目はそれでもやはり何かを鮮やかに浮かび上がらせていると言えると思います。何度も何度も繰り返し声に出して俳句をよんでみる。余韻を感じる。音の響きをたのしむ。しずかな池を見たときに、蛙の俳句を思い出す。このような俳句との付き合い方は、言葉を尽くして説明を重ねていく解釈的な方法とは異なります。俳句も「ヨーロッパ的解釈」の方法でもって解釈することは可能なのだろうとは思いますが、そうした解釈法とは違った何かを持っていることが見えやすい形式であるような気はします。

 ついで三井さんの卒論発表について報告します。
 広く質疑応答がなされたのでまとめるのは難しいですが、質疑のポイントを二点報告します。一点目はNGOを相対化する視点について、二点目は卒論の結論に関してです。
 三井さんの卒論は、日本のNGOの役割を探るものですが、NGOの歴史はまだ若いため、その達成への評価について資料が充分にあるわけではないそうです。この様な状況下でNGOの活動の積極的意義を説得的に示すためには、他の諸機関の活動と比べて、どの点が優れているのかを示す必要があります。つまり、政府や企業やその他の組織と比較して、NGOならではのメリットたりうる特徴を提示するべきではないかと指摘されました。
 更に質問されたのは、卒論の結論についてでした。議論の落としどころはどこになりそうか、結論はどのような内容になりそうな見通しがあるかとの質問がありました。
 質疑応答の中で考えが多少なりとも深まった様子でよかったです。一緒にがんばりましょう。

《思いつき》

 鷲山先生の著書『文学に映る歴史意識 現代ドイツ文学考』が共栄書房から発売になりました。2月か3月辺りに書評会のようなことをぜひ一度やりたいです。

《予告》

次回および次々回の予告です。

◇次回12/12の内容
・石川さんの卒論発表
・山下の卒論発表

◇次々回12/19(12月の最終回)の内容
・前田さんの修論発表
・プラトン『饗宴』輪読の最終回※(鍋島さん担当)
※輪読箇所:酔っぱらいアルキビヤデスの乱入 (pp.137-162)

師走のゼミも残り少なくなって来ました、はりきって参りましょう。
どうぞよろしくお願いします。

山下
# by washizeminoki | 2013-12-06 12:33 | 今日の鷲ゼミ

11/28 ゼミレポート

【2013年度秋学期 第5回鷲山ゼミ】


《内容》

・『寝な構』第3回(直江さん担当)
  第3章 「四銃士」活躍す その一 フーコーと系譜学的思考
・『饗宴』第4回(西村さん担当)
  ソクラテスが語るディオティマの話 (pp.110-136)

 『寝な構』はフーコーの系譜学的思考の章でした。
 まず、本章の主題は何だったのか、本章を束ねる一本の筋があるとすれば何かということについて、下級生陣二人から質問が出ました。それに対し三人の上級生陣が回答したところ、三者三様の答え方になり、それぞれが全く違うことを言ったので面白かったです。
 私山下としては、本章はフーコー的系譜学的思考の本質説明およびその実践例と言うしかないと思います。系譜学的思考の本質についての説明が、本章の冒頭でなされるわけではなく、各所に散っていたこと、実践例も各地域各時代、つまり明治維新期の日本、現代日本、中世フランス、近代フランスなどに拡散しており整然とした並びになっていたわけではないこと、これらが読解にあたっての混乱を招いた原因ではないでしょうか。
 また今回はフーコーの狂人論についてゼミの場で話し合い、理解を深めることができました。本書では中世/近代における狂人の位置づけに関するフーコーの系譜学的思考が紹介されていました。このことをたたき台にして、わたしたちも現代日本社会の医療や科学分野の一側面を自分たちの言葉で系譜学してみました。するとフーコーの狂人論を知ったときから何となく抱いていたわだかまりが少しほどけ始め、よい収穫になりました。

 一方の『饗宴』はディオティマの話でした。
 ゼミの場では、ディオティマの「中間物」の概念に注意がいきました。ディオティマは「滅ぶべき者/エロース/滅びざる者」「智慧/エロース/無知」「智者/愛智者/無知者」など、三項の枠組みを用意します。「中間物」の意味や役割について話し合いました。
 しかし愛の目的について語る段になると、ディオティマは絶対的価値を提起します。「愛とは善きものの永遠の所有へ向けられたもの」、「愛の目的は不死」といわれていました。
 西村さんの考察を聞くと、西村さんは愛を人間同士の関係性の上に置いて理解しようとするという至極まっとうな態度をとっています。『饗宴』ではこれまで愛は、愛する者の立場、愛される者の立場を二分してそれぞれの立場の中で自己完結的な形で語られて来たので、西村さんの態度と比べるとなんだか不思議にも思えてきます。西村さんはシンポシウムに日本酒をもって殴り込みをかけにいくといいと思いました。タイムマシンがあって2500年前のアテナイにタイムスリップ出来たらいいのに。
 わかるような、わからないような、一つ分かった閃いたと思うと、また謎の壁にぶつかる。壁に頭をぶつけても、みんなでならそんなには怖くないので、『饗宴』を輪読出来て楽しいです。次回『饗宴』は気付けば最終回、アルキビヤデスの乱入と衝撃の告白が待っています。

《次週予告》

次回の内容は下記です。
・三井さんの卒論報告
・『寝な構』第4回(三浦君担当)
  第4章 「四銃士」活躍す その二  バルトと「零度の記号」

山下
# by washizeminoki | 2013-12-06 12:27 | 今日の鷲ゼミ


だが汝は、ここへと逸れて来たからには学ぶがよい、ただ死すべき身の知恵が活動しうる限りのことを。 

by washizeminoki