「ハグもキスもなしに行ってしまうの?」
「哲学者は思索中だと思ってさ。」
「キスがなきゃダメ。」
というやり取りが印象的な映画「ハンナ・アーレント」を観て、また大澤真幸✕宇波彰「思考する生ついての対話」講演会に参加してきたので、そのまとめと感想のメモ。
映画は、アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』の発表とその反響を描いたものだ。
アーレントは、ナチ親衛隊ユダヤ人課のトップだったアドルフ・アイヒマンの裁判を取材し、そのレポートを雑誌に連載するが、その結果、大批判にさらされる。
というのも、報告書の中で「アイヒマンはただ命令に従った小役人にすぎない」、「ユダヤ人指導者の中にもナチに協力した者がいる」と主張したからだ。
ホロコーストの中心人物を、悪魔的なものでなく、仕事に忠実な一官僚として描き、また、ユダヤ人を加害者的に表現したことは、論争ではなく、アーレントへの誹謗中傷を生んだ。
これにより大学も辞すよう勧告を受けるが、学生に向けての講演で、アーレントはこう反論する。
「ナチやアイヒマンを擁護しているわけではない。彼らは人類に対する罪を負っている(なぜならユダヤ人は人間であるからだ)。擁護ではなく、自分は悪の問題を扱っている。悪は、思考しないことから生まれる。そして、考えることこそが人間を強くする」と。
講演会では、この「思考」を中心に話が進んだ。
宇波氏は、この映画のポイントは「考える」ことであり、これがアーレントの思想の重要な点であると指摘した。
氏によれば、アーレントは「自分で考えること」を「自律的思考Selbstdenken」と呼んでいる。これはレッシング由来の言葉であり、他人や世論やイデオロギーに左右されず、自ら考えることだという(アーレントはとても頑固だったそうだ)。
大澤氏はこれを受けて、自律的思考は自分勝手に行われるものではなく、対話の中で生まれるものであると説明した。アーレントの『人間の条件』における「活動action」は、西欧で古代ギリシア時代からの伝統的なものである、政治的言語コミュニケーションであるという。「活動」は、例えば衣食住といった生活の必要を超え、政治的な場面に顕われて対話を行うことであり、そしてこの中で「自律的思考」が行われる。
(この対話や説得の話題では、大澤氏が宮台真司氏と意見が合わず、いつもやりあっているという話や、宇波氏がガダリから聞いたドゥルーズとのやりとり、またドゥルーズ=ガダリの『カフカ』の共訳が大変だったなどの体験談がありおもしろかった。)
そして、アーレントの思想に触れることで重要なのは、思想を勉強するのではなく、その「活動」、「自律的思考」を実践していくことであるとした。
さて、僕が興味深かったのは大澤氏が「いらいらする」と言っていたことだ。
大澤氏のいら立ちは、日本ではアーレント研究が流行り、また今回の映画も大評判であるにもかからず、政治的なインパクトがないことによる(ちなみに、大澤氏も宇波氏も、なぜこの映画が受けているかわからないと言っていた)。
「活動」研究が行われていても、「活動」自体は広がらない。
だからこそ、アーレントの思想の実践が強調されたわけだ。
なぜインパクトがないかということについて、僕はこれが強い思想だからだと思う。
アーレントの対話や思考を実践するには、知的にも精神的にも強さが必要だ。多くの人は、これを持ち合わせていないのではないか。これは、僕が八方美人で何事も穏便に済ませたいと考えているからかもしれないが、大澤氏も「一般的に言って、人は考えることを避けているし、他人と対面して意見を主張しあうことはあまりない」と言っていたので、僕だけの問題ではないだろう。
「活動」が対話、言語的コミュニケーションであるなら、対話の相手がまず前提とされる。その相手が自分と同じ強さを持っているならば、生産的な活動が行われるだろう。しかし、常にそのようなパートナーがいるとは限らない。
映画の中でも、例えばアーレントがドイツ語で議論を行うことで、アメリカ人が参加できなかったシーンや、またレポートにギリシア語を使っていることを編集者に指摘されても「読者も学ばないといけない」と突き放す場面があった。最後の演説にしても、出席者はニュースクールに通うエリートであり、高度に知的な学生たちだ(しかもわざわざ渦中の人物の講演を聴きに行くような)。
自らの水準が近いまたはそのレベルと目指す者であれば、コミュニケーションは円滑にいく。しかし、この条件を、絶対の前提とすることはできないのではないか。
映画でも、最後の反論を聞いた、同じユダヤ人であり同僚であり共にハイデガーの弟子であるハンス・ヨナスから「ユダヤ人の気持ちが分かっていない」と言われ、決別した(宇波氏・大澤氏によると、このシーンはおそらくフィクションとのことだが)。
このように、能力的にも心情的にも、対話が行えない者がいる。こういったことを想定する必要があるのではないか。(大澤氏によれば、日本のように対話を避ける社会があるなんて、アーレントにはそれこそ考えられないとのことであった。)
よって、「活動」の実践が広がるには、二つの方向が必要だと考える。
一つは、「活動」を促す教育だ。少なくとも、講義で「対話が大事、自分で考えて活動すべき」と解説されても何も変わらない。(ちなみにわっしーは、主張の方法である「プロパガンダ」と「アジテーション」の違いを、前者が大義名分を語るだけ、後者が実践への鼓舞になると説明していた。)
もう一つは、対話に加わらない者を前提とした理論構築を行うことだ。顕われない・顕われたくない人々が多数いる中で、強い思考ではない、何か別の思考、協同の方法を研究することが求められる。
前者は、アーレントを推し進めるもので、後者は、アーレントを超えていくものだと言ってもいいかもしれない。前者はやはり、少なくとも受け手の強いモチベーションが要求されるものであるため、後者の探求がより重要であると考える。
……と、書いてみたものの、この先の具体案は一切思いつかないので、以下僕の精神性が分かる言い訳。
僕はアーレントに関する研究どころか、そもそもアーレントを読んだことがない。色々書いたけれど、もうすでに当たり前のこと、あるいは的外れのことを言っているかもしれない。この文章は、あくまで、映画と講演会のまとめと感想のメモだ(だから怒らないでください)。結局、承認欲求(講演会の大澤氏の発言より)から、この文章を書いた。
振り返ってみると、お世話になりっぱなしのKヨミさんや、するどいAキちゃん、そして院の同級生のFジムラくんと、アーレンティアン(って呼び方があるか知らないけど)が周りにたくさんいた。「怒らないで」とは言ったものの、もし意見があればコメント下さい(だから承認欲求だという話)。
あと、盛大にネタばれしたけど、映画は本当に面白い。
アーレントと旦那のいちゃつきもあるし、笑いどころもある。学生時代のハンナちゃんはかわいいし、一方最後の反論は本当にかっこよくて、観ていて泣いちゃいました。おすすめです。
13日までは岩波ホールで、14日からはシネマカリテで上映します。ゼミ生は卒論・修論をとっとと終わらせて観るべし。
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