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鷲ゼミの木



7/4 ゼミレポート

Rata temporum felicitate ubi sentire quae velis et quae sentias dicere licet.
(Tacitus, Historiae)




【2013年度春学期 第9回鷲山ゼミ】

・日時:7/4(木) 18:00~21:00@1B

・内容: 鍋島さん担当の『ツァラトゥストラ』輪読、清水さんの個人発表

 今回の『ツァラトゥストラはこう言った』輪読箇所は、第三部「快癒に向かう者」〜「七つの封印」でした。これで第三部が終わりました。
 レジュメでは、内容の要約とともに、前回清水さんが提出した疑問に回答を示してくださいました。お忙しい中、素敵な発表をどうもありがとうございました。

 次に清水さんの個人発表についてです。
「卒業論文のテーマについて『日常生活における芸術としてのデザイン——フィンランドデザインに焦点を当て——』」という題のレジュメを持って来てくれました。
 フィンランドデザインに注目する清水さんは、具体的にはアルヴァー・アールトについて中心的に取り組むとのことです。
 まず「デザイン」という語義について議論がなされました。特に重要なのは「芸術」との異同についてでした。
 清水さんの問題意識の根本には、「良いデザインとは、豊かなデザインとは何か」という問いがあるように見受けられました。
 アールトに関していえば、「人間的な建築、人間的な家具」を常に模索し、必要な構造を物理的な目線だけではなく心理学的な目線からも考えていたと紹介されましたが、彼自身にも葛藤があったようです。晩年には「機能主義は本当に人間的と言えるのか」という疑問に悩まされたとのことでした。デザインの世界でも、理詰めで説明し尽くすことのできない人間の感覚的な領域が問題になってくるということでしょうか。論理で割り切れないものが残るのは当然ですが、考え尽くそうと努めることはわるいことではないと思います。考えるだけになって、感じることをやめてしまったり感じたことを捨ててしまうことが問題であるということではないでしょうか。
 今日の発表に関しては、最後に鷲山先生からいただいたご指摘が強く印象に残りました。
・ここで言われている「日常生活を豊かにするものとしてのデザイン」とは、私達の生活の様式(スタイル)に関わるものである。
・何をよしとして選び取るか。どの道具をどのように使うか。どう振る舞うか。
・以上のように美意識が、選び取られて内面化され、行動にあらわれるということ、これらは私達の生き方のスタイルの問題である。
 おおよそ以上のような趣旨だったかと思います。デザインについて大学のゼミで語られる際、その話題が「重厚でない」などという感覚とともにためらいがちな姿勢が見受けられることがありますが、デザインというのは歴然としてわたしたちの「生き方」の問題のひとつである。そんな当たり前のことに改めて気付かされました。

 冒頭のラテン語は、「好むままに感じ、感じるままにものを言うことが許された、実にまれに見る幸福な時代」という意味だそうです。ネルウァ帝とトラヤヌス帝の時代を想ったタキトゥスの言葉です(『同時代史』第一巻1(国原吉之助訳))。

山下・記
# by washizeminoki | 2013-08-02 15:39 | 今日の鷲ゼミ

7/18のゼミの様子(西村)

こんにちは。
毎日暑い日々が続いておりますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
西村です。髪切りました。


今週のゼミは、
山下さんの卒論構想についての決意表明(?)
の一本勝負でした。
いえ、厳密にいうと、
合宿の輪読本についての議論もその前座としてありました。
こちらについては前田さんが自らに糸井重里を降臨させて(?)より詳しく計画を練ることとなっておりますので、いましばらくお待ちください。

さて、その決意表明で山下さんはまず、
自由になりたい、と高らかに宣言しました。
彼女はハイデガーの時間論に己の実存でもって取り組もうとしており、
その基盤となるハイデガーの時間論の奇妙さについてこの日は図示しながらレポートしてくれました。
ちなみに彼女のその時間論の捉え方は九鬼周造を介在させたものです。
そしてその図というのは、大きな川に船があってその中に人が乗っているというもので、その人(々)が川の上流、下流どちらを見るか図示することによって、ハイデガーや他の哲学者の時間論において過去、現在、未来のどれに重きを置かれているかということを、表現することができるというものでした。
それでは、ハイデガーの時間論はどうかというと、未来に重きを置いたものなんだそうです。

このような発表を受けてゼミの議論では、未来に重きを置く時間とはどういうものかという内容がとりだたされました。
私としては、未来に対峙することは想像力でもって未来を予見することを含んでおり、この想像力は過去に規定されるものであるから、何か純粋な未来のようなものはいつまでも人には体験されないかもしれない、むしろ未来に対峙すればするほど未来から離れてしまうかもしれない、そういったことを考えました。


結局この日はずいぶん早くゼミを切り上げて、参加したメンバーでのめやさわげやの宴を催し、
山下さんの卒論の裏テーマについて、実際のゼミ中にも勝るとも劣らない熱い議論を交わしたのでした。



暑い中皆さま体調にはお気をつけて
西村
# by washizeminoki | 2013-07-20 12:18 | 今日の鷲ゼミ

6/27 ゼミレポート

ーー「二度目」などというのは、どこにも存在しない、というのが私の言い分だが、それは言い換えれば、演劇をふくむあらゆる表現は、何事をも「複製」しない、ということである。ーー
(寺山修司、『時代のキーワード』)
ーー反時代的なものは、どこか喜劇的だ。そして、喜劇的なものほど、悲しくなってくる。ーー
(同上、『墓場まで何マイル?』)





【2013年度春学期 第8回鷲山ゼミ】

・日時:6/27(木) 18:00~21:00@1C

・参加人数:計5名(途中入退場あり)

・内容: 西村さんの個人発表、石川さんの個人発表


 さて、まず西村さんのアドルノ研究について振り返りたいと思います。
西村さんは「卒業論文制作にあたって」という題のレジュメを出してくれました。

 まず、私が理解したかぎりでの研究動機は以下の通りです。


 卒業論文では、アドルノの論文「音楽と絵画の諸関係について」を中心的に扱う。
この論文において、以下のような根源的な問いが提出される。
「時間芸術としての音楽と空間芸術としての絵画とは、時間と空間という別次元に存するにも関わらず、なぜ諸芸術の各分野として並列に論じることが出来るのか」という問いである。
この問いをめぐる思考において、「収斂」という概念が重要となる。
この「収斂する」という述語はどのように用いられるか。これは、音楽や絵画、諸芸術を主語とする。本論文においては、人間の想像力が関わることが出来ない芸術の自律性が問題となってくる。 

 また、そもそもなぜ音楽と絵画の関係を考察しようとするのか。それは発表者本人の音楽体験(演奏、レッスン、鑑賞など)に由来する。実際のレッスンの場において、音楽と絵画が結びつけられることはいわば常識となっている。たとえば、演奏者がドビュッシーを演奏しようとした場合、勉強のために美術館で印象派の絵画を鑑賞することが推奨される。しかしながら、以上のように音楽と絵画を関連づける行いの根拠が、明瞭に言語化されているとはいいがたい。「ドビュッシーを演奏するために、なぜ印象派の絵画を求めるのか」という問いに対して、歴史的事実や伝統を指摘して回答することははたして十分であるだろうか。

 「音楽と絵画がいかに関連するか」という問いに対し、明確な根拠をもって答えることは難しいかもしれない。しかし以上の問題について、アドルノが音楽美学の観点から出した結論を考察することは可能である。音楽と絵画の歴史的事実を参照した上でこの論文の解釈を行いたい。


 以上が「発表のはじめに」に書かれていた内容の概略です。
また発表では、「音楽と絵画の諸関係について」の冒頭部分の原文と試訳、卒業論文の構成およびその一節を提示してくれました。

 私は今回の発表を聞いて、「一番深い疑問点にもっと思いっきり立ち止まってしまってもいいのではないか」と思いました。私自身が同じことを他の場で指摘されましたが、私達には、通り過ぎることの出来ない場所を徹底的に掘り下げることが許されているのではないかと感じています。
 たとえばアドルノの「収斂」という用語についてです。私はゼミの席での発表を聞いた後、いまこのブログを書くためにレジュメを見直すまで、「収斂」の意味をまったく誤解していました。レジュメによれば、この語は「音楽や絵画、諸芸術」を主語に置くとあります。私は、「音楽と絵画とを「収斂」させるのは人間である」と思い違いをしていたのです。「「収斂させる」のが人間でなくて、他のなにものであり得るだろうか」と思っていました。しかしながらレジュメを読み返せば、「本論文においては、人間の想像力が関わることが出来ない芸術の自律性が問題となってくる」とも書いてあります。「人間の想像力が関わることが出来ない芸術の自律性」とは一体何なのでしょうか。何の手がかりもなしには、私にはこの問いを考え始めることも出来ないように思います。
 少なくとも私には、この「音楽と絵画の諸関係について」という論文には、およそ常識に反したことが書かれていると思われてなりません。そして、だからこそ読む甲斐があるというものでしょう。自分の持っている常識などたかが知れているという思い、これこそが、私達の卒業論文への取り組みを後押しするものであり、それこそゼミに足を運ばせる力ともなっているものではないでしょうか。
 それにしても心底興味深いテーマです。今後の展開が楽しみです。楽しみすぎて自分でアドルノの当該テキストを読みたくなりますが、翻訳がないということで西村さんの苦労が殊の外しのばれます。応援しているので、続きをまたがっつりと聞かせていただければと思います。気になります。

 なお補足として、九鬼周造の『文学概論』には、マックス・デソワール(Max Dessoir)による諸芸術の分類表が示されていることをお伝えします。この表では、諸芸術(絵画、彫刻、劇、文学、模様、建築、工芸、舞踊、音楽)が「事物的/非事物的」「模倣的/非模倣的」「再現的/表現的」「客観的/主観的」、「アポロ的造形芸美術/ディオニュゾス的・ミューズ的芸術」、「空間芸術/空間時間芸術(運動芸術)/時間芸術」「二次元/三次元/視覚/視角聴覚/知覚(音)/想像(言語)」などの区分でもって分類されています。もし興味があるようでしたら、今度持って行きますので声をかけてください。


 次に、石川さんの発表についてです。

論文の研究テーマ1
「ベルリン・クロイツベルクのエスニック景観から考察するヨーロッパにおけるアジアへの「まなざし」」(仮)

論文の研究テーマ2
「日本におけるヨーロッパからの「まなざし」の受容・体現にいたるまで」(仮)

 石川さんは候補を2本示してくれました。しかしながら彼女が持つ問題意識は、完全に一貫したものです。彼女の批判精神をここに書くことは何となく差し控えます。直接聞くのが一番だと思います。
 

 さて来週の内容は、
・ニーチェ『ツァラトゥストラ』輪読(鍋島さん担当)
・個人発表(清水さん)
です。よろしくお願いします。

山下
(2013.7.1記)
# by washizeminoki | 2013-07-01 20:54 | 今日の鷲ゼミ

6月20日のゼミ

【2013年度春学期 第7回鷲山ゼミ】

・日時:6/20(木) 18:30~21:00@1B

・参加人数:計8名(途中入退場あり)

・内容:今週は豪華二本立てでしたよ。

①九鬼周造『偶然性の問題』について(発表者:りづさん)

②『ツァラトゥストラはこう言った』
第三部「旅びと」~「古い石の板と新しい石の板」(下巻、pp.-)
(発表者:ちずこさん)

 ①がけっこうなボリュームだったので、②はまた来週に持ち越しということになりました。ちゃんとレジュメ書いてくれたのに申し訳ないです。ですから今回は①について書きます。
 九鬼は以前から興味はあったものの、私は初めて今回要約された文章などにふれました。文体からなんともいえない、雅な感じがでてます。どうでもいいんですけど、「畢竟」ってなんかいいですよね、締まりますよね。
 『偶然性の問題』には偶然性の三様態、つまり(1)定言的偶然(2)仮説的偶然(3)離接的偶然、が登場するそうです。それぞれ
(1)「定言的偶然は、定言的判断において、概念としての主語に対して述語が非本質的徴表を意味するときに成立した。すなわち、或る言明的判断が主語と述語の同一性を欠くために確証性、従って必然性をもたないことが明らかになった場合である。」
(2)「仮説的偶然は、仮説的判断の理由帰結の関係以外に立つものとして成立した。すなわち、理由と帰結との同一性によって規定せられたる確証性、従って必然性の範囲外にあるものとして成立した。」
(3)「離接的偶然は、与えられた定言的判断もしくは仮説的判断を、離接的判断の一区分肢と見て、他にもなお幾個かの区分肢が存すると考えることによって成立するといえる。すなわち、言明的または確証的の命題を離接的関係に立つ区分肢と見ることによって、被区分概念の同一性に対して差別性を力説するとともに、言明性(現実性)および確証性(必然性)を問題性に問題化するのである。」
のように説明されています。今回のゼミではこのことについて具体的にどういった事態なのかという議論がなされました。
 また、このことが卒論の中心テーマとなる「非存在」とどう関係するのか、私にはまだわかりませんが、とにかく楽しみです。
 いわば思考不可能なものが偶然性なわけですが、形而下に偶然性が表出する事態があるというならば、それにはまだ思考する可能性が残されているのかなぁ、と思っております。楽しみです。

 最近の鷲ゼミでは、ニーチェしかやってないんですけど、こうして個人発表で一回のゼミにつき二人以上の思想家・哲学者が登場すると、楽しいですね。

 
 
 最近よく感じることを書きます。それは何かを考える場合に潜む暴力のようなもののことです。
 その人のことが知りたくてその人の事を考える、ということは、その人をより一層対象化すること、つまりその人と知りたい人との間に明確な区分ができる状況、になるのかもしれません。学問の世界ではなく日常生活でこれに該当するのは、「好奇な眼差しを向けられる」という言い回しによくあらわれている事態なのかな、と思います。例えば私はそこそこのドルオタなのですが、友人や家族がテレビのワイドショーなどで同じような人々が揶揄されているのを見て冷めたコメントをしているのを見ると、少し傷つきます。そこで対象化された私は、「わたしとあなた(がた)は違うのだ」、と言われていることに気がつくからです。
 もちろん日常生活と学問の世界における知識欲にまつわる関係性を同列に並べることはナンセンスです。しかし学問で対象化されるものといったら、すでに死んだ人の何かか自然科学上の何かで、それらは人格を持たないから傷つかないのです。むしろ傷つかないものが対象化されることがほとんどだと思います。
 けれども知識欲が発動される際に伴う暴力のようなものは場所を問いません。そしてベクトルも多様かもしれません。例えば何か楽曲を演奏する際に、対象化というのは表現のいわば過程なのかもしれません。というのも対象化した演奏、何かよそよそしい他人ごとのような演奏はいいものとは見なされないでしょう。そうではなく、表現の完成形として、対象化したか否かに関わらず演奏する人がその人の内面に対象としてあるものを取り入れた演奏が普通は評価されるでしょう。この場合暴力のようなものは、対象を内面化するその時に生じるのでしょうか。結果的に内面化したその人、演奏する人に暴力が向くということがあり得るのでしょうか。

…と、私はこのような問題意識で、九鬼の偶然性と必然性とそれに関わる自己や他者について、考えたらいいのかなぁ、と思ったりしますが、いやはや哲学はよくわかりません。大変だ。

 何にせよ、私にとっては九鬼がどういったきっかけで偶然性という問題に至ったのかは、まったくわかりません。むしろそれが読んでわかるほど博学になれたらいいのですが。ただ「20世紀に入って伝統的な西洋の諸々が二度の大戦を通じて自己反省を始めた」という音楽や哲学によくある風潮の中でその哲学が生まれたというのは、やはりそうなのかな、とは見当がつきます。
あとは、なんとも言い難いのですが、普通に生活していて本人の意図に関わらず、気付いてしまった何かを、突き詰めたら『偶然性の問題』という著作ができたのではないかな、と妄想しております。例えば、ほら、女なんかは偶然性のかたまりでしょうから。
その本人にしか気付いていない何か、というものはニーチェでも感じられます。しかしニーチェのほうがそれをどうにかして人民に解き明かすというストーリーでもって著作を書いているのでいくらか啓発的です。九鬼のほうはどうなんでしょうか。



というわけで、来週の発表は、私と、かおるさん、の予定です。
ニーチェはお休み、音楽の形而上学と、ポストコロニアリズムという、なんとも食べ合わせの悪い組み合わせですが。(笑)



鷲ゼミらしい日になりそうです。







西村
# by washizeminoki | 2013-06-21 18:30 | 今日の鷲ゼミ

6/13 ゼミレポート

——時にまたヅアラトゥストラの教えたるのどけき笑ひ内よりぞ湧く——
(九鬼周造、「巴里小曲」)





【2013年度春学期 第6回鷲山ゼミ】


・日時:6/13(木) 18:30~21:00@1B

・参加人数:計6名(途中入場あり)

・内容:第5回 輪読『ツァラトゥストラはこう言った』
    第二部「自己超克」〜「最も静かな時」(上巻、pp.193-258)
    (発表者:三浦君)


 今回で『ツァラトゥストラ』上巻が終わりました。
発表者の三浦君が「大いなる事件」の節が転換点として重要な意味をもつことに注意を促してくれたので、節タイトルはじめ「火の犬」「大地」や「最も静かな時/この最も騒がしい時」などなど様々なキーワードについて、皆で推理しました。この本について皆で話し合っていると、段々何が本当の事なのか、現実はどこからどこまでなのか、ニーチェはどこまで本気なのか、色々と分からなくなって来て頭の中がいい具合にかき回されます。毎週この脳内無重力感覚を楽しませてもらっております。本気で翻弄されているのです。ある意味で、これは最高のあそびです。今週は特にその思いを強くするような箇所だったかもしれませんね。

 さて個人的には「救済」の節が、とうとう来たかと待ち構えていた箇所でした。
節タイトルはもともと"Von der Erlösung"(≒about the rescue, concerning the deliverance)なので、「解放」などと訳してもいいと思います。
戻りえない過去のわだかまりに関して、和解をもとめる意志が「創造する意志」と呼ばれています。以下に一部分を引用します。



 過ぎ去った人間たちを救済し、すべての『そうあった』を、『わたしがそのように欲した』につくりかえること——これこそわたしが救済と呼びたいものだ。
 意志——これが自由にし、よろこびをもたらすものの名だ。(p.242)
 時間が逆もどりしないということ、これが意志の深い忿懣である。『すでにそうあったもの』——意志がころがすことのできない石の名はこれである。(p.243)
 これこそ、いやこれのみが、復讐というものである。時間、および時間の『そうあった』に対する意志の反感、これが復讐の正体である。(ibid.)
 そして意志者自身のなかに、逆もどりを意志することができないという苦悩があるから——従って意志すること自体、ならびに一切の生が——罰だということになった!(p.244)
 『そうであった』は、すべて断片であり、謎であり、残酷な偶然である、——創造する意志がそれに向かって、『しかし、わたしが、そうであることを意志した!』と、言うまでは。(p.245)
 誰ひとり意志にむかって、時間との和解を、またあらゆる和解よりさらに高いものを、教えた者はいなかった。
 すべての和解よりさらに高いものを、意志は意志しなければならない。意志は力への意志なのだ。——だが、どうして意志がそうするようになれるだろう?誰ひとり意志にむかって、逆もどりして意志することを教えたものはいなかった。(p.245f.)



 意志によって過去をよみかえることは、ひとが日々行っていることです。過去が動かせないものであるにしても、解釈の仕方によって悲劇が喜劇にも反転しうる。だから私は物語を構築する技術を培いたいと思っています、ニーチェがどの程度手本になるかは分かりませんが。不条理にはどうあっても遭遇するでしょうけれども、どうせならコミカルな劇を生きたいかなという希望のためです。
また「忘れることは人間の大切な能力のひとつだ」とも言います。
ところで、上記の引用の中で、「意志がころがすことのできない石の名はこれである」というのが出て来て、もしかして洒落だったらどうしようか……と思ったのですが、ドイツ語だとder Wille(意志)とder Stein(石)なのでそういうことでもないのですね。洒落と詩は翻訳がとりわけむずかしい。「有徳者たち」の節で登場した《ich bin gerecht》(わたしは正しい)と《ich bin gerächt!》(わたしは復讐した)の箇所は強引ながらもただの洒落ではなかったのが思い出されます。これは直訳不可能なので、どちらも「ゲレヒト」であることを示すルビがふってありました。

 今回冒頭に掲げたのは、九鬼周造のパリ滞在中の短歌です。今回の輪読箇所に関連して、時間と和解できたらこうなる——、という一例につき。
 
 次回は、山下の個人発表(九鬼『偶然性の問題』について)と清水さんの輪読発表の二本立てです。
輪読は第三部「旅びと」からです。
『ツァラトゥストラ』下巻をくれぐれもお忘れなく。

山下
(2013.6.19記)
# by washizeminoki | 2013-06-19 14:33 | 今日の鷲ゼミ


だが汝は、ここへと逸れて来たからには学ぶがよい、ただ死すべき身の知恵が活動しうる限りのことを。 

by washizeminoki